時代は慶長6年(1601年)、このときわずか12歳の中村一忠は、父・一氏が関ヶ原の合戦で功績をあげたことにより、伯耆国の城主として十八万石を与えられました。すでに天正19年(1591年)には、吉川広家によって四重の天守が造られていましたが、一忠はさらに五重の大天守を建立。名実ともに山陰一の名城となります。こうして、米子城を中心とする新しい地域が繁栄するようになりました。
しかし時を経た明治の初め、米子城はわずかな金銭で売却され、取り壊されるという運命をたどります。
城跡は現在、市民の憩う公園となり、米子市街や中海を眼下に従えて、島根半島や大山までもが眺められる天守閣跡は絶好の展望地となっています。
志し半ばで20歳の生涯を終えた若き城主は、山陰随一とうたわれた我が名城の、石垣だけを残す姿を知るよしもありません。