大山の歴史もっと探索プラン

大山の歴史もっと散策コース

かつては僧兵により一大勢力を築いた「大山寺」の繁栄、弥生白鳳ロマンを実感できる「むきばんだ遺跡」、カラス天狗の伝説が語り継がれる「仁王堂公園」など、幾多の歴史背景に彩られたこの一帯。こちらでは、中国地方屈指の独立峰でもある大山周辺の歴史を、その成り立ちとともに巡ります。

◆コース案内◆

米子道溝口IC

↓ 約8.9km 車で約15分
※博労座駐車場より約500m

1 円流院

↓ 

2 洞明院(どうみょういん)

3 大山寺阿弥陀堂

↓ 約550m 徒歩5分

4 大山寺

↓ 約17.6km 車で約22分

5 名和神社

↓ 約7.3km 車で約10分

6 後醍醐天皇 御腰掛けの岩

↓ 約13.9km 車で約18分

7 妻木晩田遺跡

↓ 約3.8km 車で約6分

8 伯耆古代の丘公園

↓ 約1.3km 車で約3分

米子道淀江大山IC


■円流院 (えんりゅういん)
円流院は、元は西明院谷に属していた寺院で、かつて塔然という僧が住んでいました。塔然は、仏学や漢字を修める一方で、詩文や書画も作り、晩年は寺を出て米子の日野川畔に住んで多くの詩文や書画作品を残しています。大山寺本堂への参道右脇には塔然の顕彰碑が建てられています。

■洞明院(どうみょういん)
洞明院は、西明院谷寺院群に属し、現在は宿坊となっています。入り口の門は江戸期(1600年ごろ)の作と伝えられ、花や猿の緻密な彫刻がほどこされておろ、このほかにも不動尊・毘沙門天や「大山寺縁起」写本などの貴重な宝物が収蔵しています。

■大山寺阿弥陀堂 (だいせんじあみだどう)
大山寺に現存する寺院の中では最古の建築物。平安初期に創建、藤原期に建立され、亨禄2(1529)に山津波で倒壊。その後天文21(1552)、現在の場所に再建されたといわれる室町末期の建造物です。本尊は、仏師・良円の作といわれる丈六(2.79メートル)の阿弥陀如来で、その両脇には、観音と勢至の両菩薩も安置。建物、仏像とも国の重要文化財に指定されています。


■大山寺本堂
山岳信仰に帰依する修験道の修行道場として栄えた大山寺。平安時代以降、山岳信仰の仏教化が進むに連れて寺院が増え、最盛期には100を超える寺院と3000人以上の僧兵をかかえるほど。一大勢力として、比叡山、吉野山、高野山に劣らないほどの隆盛を極めていました。しかし、明治初期の神仏毀釈・廃仏毀釈をきっかけに衰退の一途をたどり、数多くあった寺も現在は4つの参拝堂と10の支院を残すのみ。本堂は天台宗の古刹で、昭和3年に一度焼失、同26年に再建されています。


■名和神社 (なわじんじゃ)
後醍醐天皇を隠岐島から迎え、一族郎党を率いて船上山に立てこもり、王事に奮戦した南朝の忠臣・名和長年公以下一族42名の英魂を祀った元別格官弊社。神社の規模としては鳥取県内でも最大級を誇ります。明治16年に初めて参道に桜が植えられて以来、広大な境内は、山陰有数のサクラのトンネルとしても有名。毎年4月上旬になると多くの花見客で賑わうようになりました。


■後醍醐天皇 御腰掛の岩 (ごだいごてんのう おこしかけのいわ)
今から約670年前(1333年)、後醍醐天皇は、命がけで隠岐の島を脱出しました。そしてたどり着いたのが「名和の湊(今の御来屋港)」でした。この時お疲れになった天皇が体を休めるため、海岸にあった大きな岩に腰をかけられたという言い伝えから、この岩を「お腰掛けの岩」と呼んでいます。


■妻木晩田遺跡 (むきばんだいせき)
考古学の歴史を塗り替える様々な遺跡が発見された大山山麓でも、特に注目が、国内最大級の弥生遺跡として話題を集めている妻木晩田遺跡。遺跡のある丘陵は、6つの地区で構成されており、その一部を公開。弥生時代の伯耆地方に存在したであろう「クニ」の中心的な大集落だったことを容易に想像させてくれます。太古のロマンを直に感じることができる貴重なものとして、日々多くの関係者も訪れているそうです。


■伯耆古代の丘公園 (ほうきこだいのおかこうえん)
「向山古墳群」を整備した公園には、2つの丘陵内に前方後円墳をはじめ、総数17基の古墳が分布しており、前方後円墳の密集度では全国有数の規模を誇っています。5世紀後半から6世紀後半にかけての古墳群で有名なものが数多く存在し、平成6年、国の史跡にも指定されました。園内には、竪穴式住居のほか、高さ15mにもおよぶ高床式建物を復元。展望広場からは、淀江の平野、日本海を大パノラマに見渡すことも可能です。また体験館では、火おこし、勾玉作り、埴輪・土器作りといったユニークな古代体験も楽しめます。



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