大山・山陰絵日記 「名城のかたみ」 4月1日
近世城郭として特色を誇る名城
「米子城」がそう呼ばれた“理由”がここに
3月30日、米子市加茂川沿いの一角で開催された「食のみやこ祭in下町」。
ご当地の料理が振る舞われるなど多くの人で賑わいをみせた会場の一角、実は米子の歴史を知る上でとても貴重な展示物があったのには驚かされました。
それが米子城の鯱(しゃちほこ)。
米子城は、近世城郭としてほぼ完成したのが慶長6年(1601年)(※これは松江城よりも10年早い)。
元和元年の「一国一城令」にも例外として存続を許された全国の支城のなかで、このような天守を備えるものは稀であったとされるほど、特色を誇る名城として讃えられてきたのです。
それが現在では櫓閣も姿を消し、内側の堀も埋め尽くされ、その雄姿は見る影もなく・・・。
ただ、本丸の石垣は修理復元され、今も米子城跡として地元民の隠れた名所に。
この場所に立ち、大山、また中海の眺望を望めば、繁栄を極めた往時を偲ぶことができるのかもしれませんね。
では、櫓閣などが姿を消すなかでなぜこの鯱が残っていたのか?
それは遡ること約150年前。
嘉永5年(1852年)の四重櫓の修理の際、修理費用を負担した米子の豪商鹿島家両家(本家・分家)に下賜されたからだそうで、それが今でもこうして大事に保存されていたゆえの結果。
この鯱(正式には、四重櫓鯱瓦と呼ぶ)、ちなみに近世米子城が創建された1601年ごろの鯱瓦だと考えられているそうで、まさにありし日の米子城のシンボルであったことは言うまでもありません。
こんな鯱ひとつとってみても、
「梅雨晴れや朝日に匂う久米ケ城」(米子荒尾氏十代・成裕)と謳われ、名城と讃えられた城郭の面影を垣間見ることができますね。
ともあれ、貴重な経験でした。